
西念寺由緒

宗派
浄土宗
開基
服部半蔵正成
法名
専称院殿安譽西念大禅定門
開山
文禄3年(1594)専譽念無上人

専称山 安養院 西念寺は、忍者として有名な「服部半蔵正成公」の開基によって、松平信康公(徳川家康公嫡男)の供養の為に開創されました。半蔵正成公は、忍者である父「初代半蔵保長」の子として、天文11年(1542)三河国(愛知県)に生まれました。
父、保長は忍者の頭領でしたが、正成公自身は武士として徳川家康公に仕え、伊賀・甲賀の忍者を率いて、また槍の名手として「鬼半蔵」の異名をとり数々の武功を重ね、家康公より槍を拝領しました。
徳川家康公と奥方築山殿との間に長子として生まれ、武勇に優れ将来を嘱望された信康公は、徳川家と同盟関係にあり、天下を望む織田信長公の注目する所となり、その娘を娶りました。 しかし、信長公は信康公の優秀さへの恐れと猜疑心により、噂にすぎない信康公の乱心を理由に(一説には武田勝頼公との内通を疑われ)信康公の切腹を家康公に要求してきました。この信長公の非情な命令に背くことができず、徳川家安泰と織田家との同盟関係維持の為、家康公は断腸の思いで、最愛の長子信康公に切腹を言い渡しました。この信康公の切腹の際に介錯を任ぜられたのが半蔵正成公でした。しかし「鬼半蔵」の異名をとった正成公といえども、いかに命令とはいえ、仕えていた主君に刃を向けることはできず、遂にこの役目を果たすことができませんでした。このことから世の無常を感じ、信康公の冥福を祈る為、仏門に入りました。
天正18年(1590)、家康公は江戸に入国し、江戸城を築き本拠を置きました。半蔵正成公も、これに随伴し江戸に入国しましたが、信康公の御霊を弔うために剃髪出家し、名を「西念」と号しました。そして麹町清水谷(今のホテルニューオータニ近く清水谷公園付近)に庵を設け、遠州以来奉持していた信康公の遺髪をここに埋めて、専称念仏の日々を送りました。
文禄2年(1593)半蔵正成公は、家康公より金300両を賜り、信康公の御霊と徳川家忠魂の冥福を祈り、また戦で討ち取った人々の追善供養のために、一宇を建立するよう内命を受けたと記録されています。しかしながら寺院建立を果たせず、文禄4年(1595)11月14日、55歳で正念往生なさいました。法名は「専称院殿安譽西念大禅定門(せんしょういんでんあんよさいねんだいぜんじょうもん)」です。
その後、同所に一宇の建立がなり、山号・院号・寺号は、この法名からとり「専称山安養院 西念寺」となりました。
